主人公になれなかった僕とあなたに
こんばんわ。
先日テレビ朝日で「君の名は。」が放送されていたみたいですね。
日本人で映画を嗜んでいる人なら、一度は耳にしたことがあるタイトルなのではないでしょうか。日本映画史にも残る250億円を超える興行収入。世界に目を向けると、日本映画および日本のアニメ映画で世界歴代興行収入1位だそうです。凄いですね。
私もこの作品を公開から半年ほど経った2017年2月頃に劇場で観ました。普段劇場で映画を観ることは全く無い私ですが、この作品は劇場で観れて良かったと今でも思います。眼前を埋め尽くす巨大なスクリーンでこそ新海誠監督の美術は映えますから。当時はブーム真っ盛りでしたから半年間情報を遮断するのは本当に大変だったことを覚えています。
内容について賛否両論ありますが(あって然るべきと思います)、私はこの作品が好きです(勿論全肯定しているわけではありませんが)。
その内容の素晴らしさについて、今更私が語る必要も無いでしょう。私には語彙だの表現力だのがありませんので。
さて本題に入りましょう。
僕が新海誠監督作品と出会ったのは確か中学2年生の頃でした。そうです『秒速5センチメートル』です。
未視聴の方のために簡単に説明すると、秒速5センチメートル(以後秒速と呼びます)は、主人公達の時間の経過による心の距離の変化について描いた作品です。
これ以上は書けない。詳しく知りたければ一度観るべし。
###以降ネタバレ注意###
作中の1シーン 当時の僕はこの美しさの虜になった
よく秒速は「鬱になる作品」だと言われます。
(一旦秒速から話を変えて)新海誠監督作品を嗜んでいる方ならご存じかと思いますが、秒速の前の作品である「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」でも男女の心の距離を描いています。これら2つの作品に共通することとして二人の間にどうしようもない物理的な距離があります。
※「ほしのこえ」では二人の間に天文学的な距離があり、最終的にメールが伝わるのにも数年単位でかかってしまいます。
それでも二人は物理的な距離何てものともせず(語弊がある)お互いを強く思い信じあうのです。素敵な純愛ですね。嗚呼、素晴らしき哉
これらの作品のコンセプトには『離れていても心は通じ合える』があるのだと僕は勝手に思っています。
一方で、秒速では貴樹が転校したことで物理的な距離は勿論ありますが、二人を隔てるものは物理的な距離だけで、手紙は届くし電話も繋がります。
※3部でWIL〇COM製の携帯電話でメールのやり取りをする場面があります。この時の貴樹は二十歳過ぎと断定できますが、この携帯電話が登場するよりも何年も前に電子メールの黎明期は始まっています。貴樹が高校生になった頃には電子メールを送れた可能性もあるのです。
それなのに、物理的な距離は心の距離となり、次第に手紙の届く頻度(スピード)は減り、やがて手紙を出すことも無くなった二人の心の距離は離れていってしまいます。
まぁずっと遠距離恋愛でいたら多少は心も離れていくのでしょうが、第一部で「このまま時が止まってしまえばいい」と思うほどお互いに惹かれ合っていた男女が、こうも変化していく様を観るのは心が苦しくなります。
幼い二人が知り合い、恋をして、子供の二人にはどうしようもない障害が立ちはだかっても一度は立ち向かい突破して。不幸にもまた障害が立ちはだかったけれど、一度障害を乗り越えられた二人ならまた乗り越えられると、そう思っていたのにと…それまでの過程が丁寧に描かれた作品だからこそ心が深く抉られるのでしょう。特に「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」を観てきた人には。
これこそ秒速が鬱作品と呼ばれる所以でありましょう。
いや違う。
秒速が鬱作品と呼ばれる理由はこれだけじゃないし、こんな理由ではない。
これが鬱作品であると言われるのは、多くの人がこの作品に没入し自己投影しているからに他なりません。
言ってしまえば男女の遠距離恋愛なんて珍しいものでもなくて。ただのありがちな男女のすれ違いだと、自分には関係の無い話だと、頬杖をつきながら言える人がマジョリティであればこのような評価は生まれていなかったでしょう。
僕がこの作品を初めて観た13,4歳の頃に、こんな素敵な恋愛をしたいとか、美しい青春を送りたいとか確かに思っていたはずなのに、何も成せないまま貴樹君よりも年上になった今、自分は主人公になれなかったし今後もなれないと悟ったのです。あの美しい舞台には立てないし輝くことも無い。これほどの絶望がありましょうか。
そうです13,4歳から本気で努力すれば、いや本気じゃなくても、ある程度でも良いから明確な意思を持って継続して努力すれば18歳になるころには一定の成果を生み出せましょう。子供の頃の時間は本当に貴重で、そして無限の可能性を秘めています。大人になった皆さんであれば理解できるのではないでしょうか。
小中学生の頃から、あるいは高校生からでも継続して努力していれば宇宙飛行士だって夢じゃないでしょう。スポーツは少し難しいかもしれませんが、継続的な努力の力は凄まじいものです。
私はその努力をしてこなかったのです。誰にだって等しく時間はあって青春時代を過ごしてきたのに努力をしてきませんでした。今そのツケを払わされているのです。こんなはずじゃなかった、やり直させてくれと言っても時計の針はもう戻せません。
思い出せば中学や高校の先生も同じことを言っていました。ネットでも大人達が同じことを言っていました。なのに何故僕はその貴重な先達のアドバイスを聞き入れなかったのでしょうか…。
秒速はあくまでフィクションですが、貴樹と明里のような男女が存在しなかったと誰が断言できましょう。
奇跡も無ければSFもオーパーツも存在しない、現代日本の一景を切り抜いた、この一見ありそうな作品だからこそ、頑張れば自分が主人公になれそうに見える作品だからこそ、『主人公になれなかった』という事実が重くのしかかり鬱になるのだと僕は思います。
これこそが真に秒速が鬱作品であると言われる所以でありましょう。
日本で普及しているコンテンツの多くは、ジュブナイル作品でなくても主人公が10代の少年少女であることが殆どです。作品の中には超能力を扱ったりSFチックな非現実的なものも多々ありますが、秒速のように非現実的な要素を極力排除した作品も多々あるのです。サマーウォーズはその一つです。
※OZという巨大仮想ネットワーク空間が登場しますが、現実にも巨大ネットワーク自体は存在していますし、仮想空間をVRで再現する取り組みは既に行われています。
毎年夏になると放送される「サマーウォーズ」 名作
今僕は二十歳を過ぎました。もう少年と呼べる歳じゃありません。もう多くの主人公は年下になってしまいました。
そうです、僕が今からいくら努力したところであのキラキラとした主人公にはなれないのです。希望に満ち溢れた青春は終わり、これからあと何十年か労働に従事することになります。
きっとあの物語のようなドラマチックで情熱的で面白い出来事は起こり得ないでしょう。青春はもう帰ってこない。
あの美しい情景に今も囚われたまま
主人公になれなかった僕はこれからどうすれば良いのでしょうか。
え?あなたもですか?奇遇ですね。